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2011年1月29日土曜日

冬の記憶

昭和36年か37年だったと思うが、その年の冬はとりわけ寒さが厳しかった。

当時の小学校は冬の暖房は石油では無く石炭ストーブだった。
石炭ストーブは石油ストーブと比べて暖めるには手間がかかる。そのために学校では石炭当番なるものを決めていた。石炭当番は授業開始1時間前には教室に到着して、石炭バケツを持って校庭の一角に設けられた石炭置き場まで行き燃料を教室まで運ぶのだ。運んだだけでは駄目で、紙を薪と石炭に順番に点火してストーブを暖めておかなければならなかった。

それはとても寒い朝だった。前日から降り積もった雪は夜になっても融けず、翌朝には氷のように固くなって道路に30センチ程の高さになっていた。校舎の屋根からぶら下がったツララの長さは30センチは越えていたし、学校の側を流れる川には厚さ20センチになろうかという氷が張っていた。

石炭当番になった僕は相方の到着を教室で待っていた。石炭バケツに石炭を入れると、その重さは結構なものになるので、子供一人の力で運ぶには少々不安があったのだろう、石炭運びは二人でやる、という決まりになっていた。でも、その朝、相方はなかなかやって来なかった。仕方無く僕は一人で石炭バケツを持って廊下を歩き始めた。廊下を通って下駄箱の所で長靴を履こうとしていた時、側で女の子の声が聞こえた。

「一人で石炭を運ぶの、大変でしょ。」彼女はニッコリと微笑みながら僕の顔を見ていた。でも僕はどこで会ったのか思い出せなかった。
「きみは? えーと?」何故か僕はしどろもどろだった。
「隣のクラスの美津子っていうのよ。今朝は、お母さんが摘んでくれた花を持って来たのよ。」彼女はそう云うと再びニッコリとした。見ると彼女は手に花瓶を持っていた。
「でも、今朝は水道の水は凍ってしまってるから出ないぞ。水なら防火用水の水がバケツに汲み置きしてあるから、それを使ったら。」僕はそう言って、廊下の端っこにあるバケツを指差した。
「そうね、そうするわ。でもその前にいっしょに石炭を取りに行きましょうか?」彼女はそう云うと、僕の前を石炭置き場の方に向かってスタスタと歩き始めた。

降り積もった雪の校庭を横切って自転車置き場の端までたどり着いた僕たちは、黙々と石炭をバケツに放り込んだ。バケツは横に細長く、一方の端が船の前方のようにせり出した形をしていた。それは一度に多くの石炭を運べるようにするためと、バケツからストーブに石炭を投入し易くするための工夫だったのだろう。戻り道、僕の手にかかる重みはズッシリとしていたけれど、心は不思議と軽かった。彼女と別れて、教室に戻ると僕はさっそく新聞紙に火をつけた。そうしてストーブがかなり暖まった頃に僕の後ろで彼女の気配がした。お礼を云おうとして僕は振り向いたけれども、そこに彼女の姿は無かった。隣の教室に行くと机の上に花がいっぱいに生けられた花瓶がポツンと置かれていた。

それから1週間程した放課後、僕は掃除後のゴミを集めて、校庭の端にある焼き場まで運んでいた。冬の日は短く、太陽は午後の雲に隠され、かすかに夕暮れの気配が漂い始めていた。コンクリート製の焼却炉には、ゴミの投入口があり、そこは取手の付いた重い鉄板で覆われていた。僕が取手をつかむと焼却炉の向こう側からクスクスという笑い声が聞こえてきた。顔をそちらの方に向けると彼女がいた。
「今日も一人のようね。」そう云いながら彼女はコンクリートの陰から出て来た。
しばらくポカンと彼女の方を見ていた僕は「ゴミ捨ては一人でするもんだからね。この前とは違うよ。」と言った。
「でも、なんだか、寂しそうだったわね。私の気のせいだったのかしら。でも、案外元気そうで安心したわ。」
「そんな風に見えるかな?」実は、その前日にちょっとした事件があった。

僕たちは通学にバスを利用していた。下校時になると学校から集団でバス停留所まで歩いてゆくのだ。バスを待つ間、何気なく側の公園の方へ足を向けると、下級生が二人、茂みの陰で何か言い合っていた。二人とは話をした事もなかったけれど、しばらく話を聞いていると状況がわかってきた。持っていた漫画本を、もう一人の生徒が無理矢理取り上げていたのだ。取り上げられた生徒は、返してくれよう、と何度も言った。でも、取り上げた方は、笑って取り合うつもりはなさそうだった。どこかで見たような風景のような気がした。そのせいかどうかは知らないが、僕は二人の方へ出てゆき、本を取り上げた生徒に、本を返してやれよ、と言った。その子は僕の顔をしばらくの間、じっと見つめた後、しぶしぶと本を持ち主に返した。そして捨て台詞を残して、どこかに行った。
「俺にゃ、強い、にーちゃんがおるんやど。おめーの事を言いつけてやるからな。待っとれよ。」
僕は一瞬、しまった、と思った。でもよく考えてみると、どうせ嘘に決まっているだろうし、それに、そんなに都合よく、兄がバス停留所にいるわけがないと思った。だから、捨て台詞の主の嘘をあざ笑ってやろうと考えたのだ。ふと後ろを振り向くと、本を返してもらった子はとっくにどこかに消えていた。
やがて樹の茂みの向こうから僕よりも遥かに大人に近い子供が出て来た。そして、その後ろには見覚えのある姿も。「こいつや、にーちゃん、こいつが俺の事をいじめたんや。」
辛うじて僕は反論した。「そんな事あるもんか。そいつが同級生から本を取り上げていたから、やめろ、って注意しただけだよ。」
「そんな事あるもんか。にーちゃんはお前の嘘なんか信用するもんか。」
小学生の身長の伸びは速い。学年が三つも違えば、上級生は雲をつくような身長の大人に感じられる。
「ほんまに、いじめたんか?」だから巨人が物を言った時にはもう喋る気力は萎えていた。僕は何も言わず、立ち尽くすしかなかった。

気がついた時、僕は凍てついた地面の上に転がっていた。どこか遠くで「ざまーみろ。」という声が響いていた。そして、あまりにも怖い目に合うと小便を漏らすのが作り話でない事を知った。

僕がぼーとしてる間に彼女は僕の側に来ていた。僕はちょっと面食らったので、急いで「昨日、僕とバス停留所で会ったかな?」と聞いてみた。
「いいえ、会わなかったと思うわよ。でも昨日何かあったようだわね。」
「そんな事はないよ。」僕はどもりがちに彼女の言葉を否定した。「そんな事よりも、この前は急にいなくなって、どうしたんだい。」とにかく話題を変えたかった。
すると彼女は「私ね、川が苦手なの。」そう言ってそばの川を指差した。
「えっ? 今は冬だろ。誰だって川は苦手なんじゃないかなあ。」
「そうね。そうだったわね。」そう言うと彼女は押し黙ったまま、僕の後ろの方に歩いた。
だから僕は持って来たゴミを焼却炉の中に投げ込む作業に戻った。そうしているうちに彼女から何か返事があるだろうと思ったからだ。でも、いつまでたっても返事はもらえそうになかった。だから、僕は後ろを振り向いた。でも、周囲のどこにも彼女はいなかった。

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